恵みの福音

けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた、、、ガラテヤ1:15,16


 教会ではクリスチャンによる「証し」を聴く機会があります。「証し」とは何をすることでしょうか。「証し」とは、主からの恵みを聴く人たちと分かち合い、共に主をほめたたえることですね。そこで、皆さんにお尋ねします。クリスチャンが「証し」する時、欠かせないものは何でしょうか?それは、主と出会い、主による救いの恵みを経験していることです。「(自分は)主と出会いました」と確信をもって証しすることは大切ですし、「主イエスの救いがわかりました」と証しすることも大切です。そして、「(自分は)主によって(こんなにも)変えられました」と証しすることができたら最高ですね。


 このように、主の恵みを証しする「証し」とは、、、証しする者が(それぞれ)神様に触れられた(霊的な)体験なのです。誰かに教えられたことではなく、その人が神との交わりの中で経験する(霊的な)体験です。よくお話することですが、、、美味しいものを食べて感動したという話を(他人に)伝えるとき、、、その人が実際に食べて感動した(実)体験には説得力があるように、、、神との出会いも同様なのです。その人が神様から直接に触れられて目が開かれたという霊的な(実)体験が聴くものにも感動を与え、ともに神の御業をほめたたえることになるわけです。


 パウロが(先にガラテヤの諸教会に)伝えていた福音を否定するユダヤ主義の偽教師たちは、、、人が救われるためには主イエスの十字架だけではダメだ、、、ユダヤ人になって割礼を受け、律法を守らなければだめだ、と間違った教えを伝えてガラテヤの信徒たちを混乱させました。しかし、パウロはこの手紙の中で、改めて宣べ伝えた「福音」とは、ずばり、、、キリストが自分の罪のために十字架で死なれ、よみがえってくださったと信じて(人は)救われる、というものです。パウロは、(この福音を)復活のキリストから直接に受け取ったのだと語りました。

  パウロは15節において、主が「恵みをもって召してくださった」と証言しているように、主が(パウロに)明らかにした「福音」は「恵みの福音」なんですね。「恵み」とは、神の前に褒(ほ)められることなど何もない自分が、神様からのご愛によって一方的に罪が赦され、救いが与えられることを意味します。パウロは(かつては)神の教会を迫害し、神であるキリストに敵対していた罪人の中の罪人である「自分」に、復活のキリストが直接に声をかけられ、罪の赦しを宣言され、異邦人宣教に召してくださった、、、、神はそのような「自分」を、生まれる前から召してくださっておられたのだ、と受け取ったのです。


 わたしたちはどうでしょうか。パウロのように、「主が(こんな)わたしにも出会ってくださり、救いへと導いてくださったことを心から感謝します」と証ししたいものです。そして、何よりも、神の救いのご計画の中で、主がなんと(生まれる前から)わたしに目を留めていてくれたのだと感謝をもって証しする者でありたいと思います。