キリストにある自由

彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。ガラテヤ2: 4b


 きょうは、ガラテヤ人への手紙を通して、キリストを信じることで得られる「自由」について考えてみたいと思います。みなさんは「自由」というと(まず))何をイメージするでしょうか。その昔、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が、主によって立てられた指導者モーセによって奴隷から解放された、あの「出エジプト」の出来事で考えますと、確かにイスラエルの民は(奴隷から解放されて)自由の身となりましたが、、、しかし、それは(パロによる支配という)外側の抑圧からの自由であって、(聖書で)イエス様が仰っている自由ではありません。聖書の中で、イエス様は自由について(どのように)言っておられるでしょうか。


 ヨハネの福音書8章32節の中でイエス様は、「、、、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と仰いました。同じく、主はヨハネの福音書14章6節において、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とも仰っていますから、、、真理とはイエス様そのものなんですね。その「真理なる」イエス様が、、、私たちを自由にすると語っている、、、この(私たちを自由にする)神の御業こそが福音なのです。


 イエス様が私たちを自由にして下さるとはどういうことなのでしょうか。それは、私たちの心を縛っている様々な罪から解放して自由にして下さる、という意味です。私たちの心を縛る罪はたくさんあります。悩み、怒り、憎しみ、情欲(不品行)、名誉欲、プライドなどです。律法にあるように、「赦しなさい」「愛しなさい」と神様から命じられても、すぐに人を赦すことが出来ない「私たち」です。人が自分の力で守ろうとしても守れないものなんですね。 それゆえ、そんな人間がその罪から完全に解放されて自由にされるようにと、、、神は御子キリストを十字架につけて下さいました。私たちは自分の努力ではなくて、神が差し出して下さった主キリストの一方的な赦し=恵みを福音として受け取るだけなのです。


 私たちは、主の救いを信じて罪赦され、神の子どもとされているのですが、、、クリスチャンになった後でも、悩み、怒り、憎しみなどを(様々に)経験します。、、、それでも、悔い改めをもって主の全き救いに立たせていただく時、私たちの心の中の悩み、怒り、憎しみなどは(時間はかかっても)主の御手に委ねていくことができるのは「確かなこと」です。「人を愛しなさい」と神から命じられても、自分の力では到底愛することなど出来ない「私たち」ですが、信仰をいただいて、主が命懸けでわたしを愛して赦して下さったことが(聖霊によって)わからせていただく時に、私たちは(初めて)「人を赦し、人を愛すること」が出来るようになる、、、その時こそ、人は主によって真に「自由」にしていただけるんですね。ですから、クリスチャンがキリストの自由をいただくために必要なものとは、①悔い改めることと②キリストが(愚かな)わたしの罪のために死なれたことが分かることなのです。