分け隔てしない神

そして、おもだった者と見られていた人たちからは、—彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。ガラテヤ2:6



 ガラテヤ2章6節には、「神は人を分け隔てなさいません」という「みことば」があります。実に、私たちが知っている聖書の神は、人を分け隔てしないお方です。一方、私たち人間は、なんと人を「分け隔て」してしまう者でしょうか。「仲良しグループ」という言葉を使うと分かりやすいですが、私たちは互いに気が合って、仲の良いグループを作って行動する傾向がないでしょうか。おそらく、人は一人で行動するよりも、グループを作ることによって安心するのかも知れません。しかし、「安心できる」というプラス面だけならいいのですが、残念ながらマイナス面もあります。それは、「気が合う者同士で固まって」しまい、人を「分ける」危険、、、すなわち、一致できない、、、ひとつになれない危険が生じてくるのです。この「人を分ける」という性質は、人間の罪ですね。ですから、私たちクリスチャンも気をつけなければなりません。イエス様を信じて罪赦されて救われた後にも、「人を分ける」という罪の性質が鎌首をもたげてくるからです。教会の中に「仲良しグループ」を作ってしまうと、教会は大変苦労します。パウロの時代のコリント教会を考えてみるとわかりやすいと思います。教会の中に仲良しグループができてしまうと、教会がひとつにまとまることが困難になりますね。また、パウロが苦労したのは、啓示を受けていたイエス様からの教えが、素直に彼らの中に入っていかなかったからです。


 わたしたちの教会は大丈夫でしょうか。教会の中に様々なミニストリーグループがありますが、イエス様を中心にして、主に愛されているひとり一人が等しい立場で交わることができているでしょうか。誰かが上で誰かが下でという縦の関係はないでしょうか。わたしたちは常に自分自身を点検する必要があります。


 エルサレム教会から来た、(しっかり救われていない)ユダヤ系クリスチャンたちが、ガラテヤ諸教会に入り込み、人々に間違った教えを吹き込もうとしました。そのことで教会は大混乱しました。ユダヤ系クリスチャンたちが伝えた間違った教えとは、人が救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでは不十分で、割礼を受けて律法を守らなければならない、、、すなわち、異邦人はユダヤ人にならなければならないと教えたことです。彼らは、人が神に救われる条件として、ユダヤ人と異邦人とを区別したのです。しかし、神は人を分け隔てされないお方ですね。人は、主イエス・キリストを信じて(ただ)救われるのです。わたしたちが(この)真理に立つためには、聖書の神様を正しく知ることが大切です。神は、わたしたちひとり一人をこよなく愛して造られました。この神様が、神から離れて罪人となった「わたしたち」を救うために、主キリストをこの世に遣わされ十字架につけられたこと、、、それほどに、神はあなたやわたしを愛しておられることを覚えたいと思います。