イエス様はまことのぶどうの木です

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることが出来ないからです。」ヨハネ15章5節

 兄の息子が小さい時に、彼の足の指にあるひとつの特徴を見つけ、兄に話しました。意外にも兄は「私もそうですよ」と答えました。面白いと思いながら、親子にある血のつながりとはこういうものだなあと考えさせられました。また、あるキャンプに参加した時に、ひとりの若者が次のように自己紹介しました。「私を見ると、誰の息子であるのかすぐにわかりますよ」と。確かにいう通りでした! 聖書学院ではその若者のお父さんの授業をよく受けました。親子関係については、嘘をつくことが出来ないものです。

 同じように、ぶどうの木につながっている枝は、さくらんぼを結ぶことなど決してできません。なぜかというと、枝は木の特徴を表すからです。ですが、親子にある血のつながりより、枝と木との関係はもっと深いのです。子どもはいつか親から離れ自立しなければなりませんが、枝は一瞬でも木から離れることが出来ないからです。枝が成長し、実を結ぶ力は完全に木から受けるのです。その概念に基づいて、イエスはこう仰いました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっちるなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることが出来ないからです」神様につながっているクリスチャンが霊的な命に生き続けたいなら、絶えずイエス様にとどまらなければなりません。

 イエス様にとどまっている「しるし」は実を結ぶかどかということです。言い換えると、霊的な命が成長し続けているなら、イエス様にとどまっていることが分かるのです。けれども、農夫は成長に邪魔なものがないようにと、もっと実を豊かに結ぶために、よく刈り込みをします。同様に父なる神様も私たちを放任するではなく、私たちが丈夫に成長するために、よく私たちを鍛えてくださるのです。すなわち、イエス様を信じ、救われた時から私たちはイエス様と繋がり始めました。けれども、神様の刈り込みによって霊的な命がのびのびと成長するためには、御言葉のを聞き入れ、御言葉によってイエス様の似姿に変えられ、御言葉を実践すべきです。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話した言葉によって、もうきよいのです」(ヨハネ15:2)

アグネス インターン生