復活の主にある喜び

こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」ヨハネ20章19-20節

 週のはじめの日の夕方、復活のキリストが弟子たちの前に現れたとき、弟子たちは喜んだ、とあります。弟子たちはどうして喜んだのでしょう。3つのポイントでご紹介します。 第一に、「本当によみがえった」ということを納得し、得心してイエス様を見たからです。世の中には「イエスは十字架に架けられたとき、実はあのとき死んではいなかったのだ」「瀕死の重傷を負ったイエスが弟子たちの前に現われたのだ」とおっしゃる方がいます。しかし、ローマ帝国で当時最も重い極刑として用いられた十字架刑でこれまで死ななかった人物は一人もいません。仮に死ななかったとしても、十字架刑に架けられた犯罪人は釘で両手両足を打ち抜かれ、自分の足で自分の体重を支えきれなくなったときに、全体重が釘打ちされた両手にかかり、両肩は脱臼し、伸びきった腕の長さは15cmほど長くなったと言われます。また、キリストが息を引き取られた後、ピラトの命を受けてローマ兵が槍でイエス様の心臓を刺したとあります。もしも、十字架刑ののち、仮に生きていたとしても瀕死の重傷の状態です。十字架から取り外されたイエス様が、重傷を負って弟子たちの前に現われたとして、そのようなイエス様を弟子たちは憐れむしかなかったでしょう。しかし、そのようなことは考えられません。イエス様は本当に死を打ち破りよみがえられたからこそ、弟子たちが喜んだと考えるのが自然です。イエス様の復活した事実が弟子たちを得心させ、これが彼らの喜びとなり、このあと自分の命を懸けてまで福音を伝える者へと変えられました。

 第二に、キリストを見て喜んだのは、キリストの表情が喜びに満ち溢れていたからです。弟子たちとは、ゲッセマネでキリストひとりを残して逃げ去りました。ところが、キリストは何の屈託もなく、平安を持って現れてくださいました。キリストの復活は、罪の赦しの完成を告げるメッセージだったんですね。復活のキリストとの再会により、弟子たちは罪赦されることの喜びを味わったのです。これが喜びの理由です。

 第三に、この復活のキリストの姿こそが、キリストを信じる者たちに約束された「予告編」だということなのです。映画を見に行くと、お目当ての映画を見る前に必ず、近々公開される映画の「予告編」が宣伝として流れます。その予告編を見ることにより、いずれ始まる映画を意識し、期待をし、ワクワクして見られるように「予告編」は作られています。そして、どうしてそれほどにワクワクし期待するようになるのかと言えば、予告編は必ず公開されることが分かっているからです。 弟子たちが、死をうち破り復活したキリストの姿を見たとき、確信が与えられたことでしょう。「やがて主を信じる自分も、主のようになるのだ。死んで終わらない復活の体に変えられる」ことを確信したことは間違いありません。この確信こそが、彼らの喜びとなったのです。わたしたちも、この喜びを自分の喜びにさせていただきましょう。