イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。マルコ2: 5
イエス様がカペバウムのある家でお話していると、天井から物音がし、ばらばらと何やら落ちてきて、そのうちに、天井が開けられ光がさし、ひとりの人が床のままにつり降ろされてきた、そのような光景を目に浮かべることができるでしょうか。当時のユダヤの家は石造。石をブロックにして積み上げ、壁を作り、外階段を設け、最後は階段から上がり、梁を通して木の葉、粘土などで固めて屋根にしました。おそらく4人の友人に運ばれ、なんとかしてイエス様のお話を聞き、中風を癒してほしいと思ったのでしょう。ところが、家まで来ると、戸口は人々でいっぱいです。そこで、外階段から上がり、屋根をはがし、なんと中風の人をつり降ろしたわけです。彼らの取った行動はあまりにも非常識で失礼な行動じゃないですか。しかし、イエス様は彼らの信仰をご覧になり、なんと中風の人の罪を赦し、病をも癒されました。イエス様は、彼らの信仰の中に何をご覧になり喜ばれたのでしょうか。
第一に、イエス様は彼らの信仰の中に、思いやりや寄り添いといった「愛」をご覧になりました。Ⅰコリント13章で、イエス様は使徒パウロを通し、「立派な行いをしても、それが口先だけで、自らを誇るためのもので、愛がないならば、何の役にも立ちません。」と語っておられます。イエス様は、わたしたちの信仰における「愛」の部分をご覧になるお方なのです。イエス様が十字架につかれる前、弟子たちに伝えた大切な戒めとして、「あなたがたは互いに愛し仕え合いなさい。」という御言葉を残されました。イエス様は、わたしたちの信仰における愛の部分をよく見ておられるのです。ですから、わたしたちが日常の中で愛のない言動をするとき、心にチクチクと責めが来る人は幸いです。イエス様は、その悔い改めを喜ばれるからです。イエス様は、愛のない私たち、ひとり一人のために、その罪を負われ、身代わりに十字架で死んでくださったお方だからです。しかし、愛のない言動をしても悔い改めることがない者は悲しい人です。イエス様の愛がわからない人だからです。Ⅰヨハネ4章に、「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」とあるからです。あなたは、イエス様があなたの罪のために、身代わりに十字架で神からの罰を受けられ、死んでくださったゆえに、すべての罪から救われていることに感謝しているでしょうか。わたしたちは、神様から一方的な「愛」=「イエス様」を頂いている、その愛に応え、互いに愛し仕え合うのです。4人の友人たちの信仰から出た行動に、イエス様は「愛」をご覧になり、喜ばれ、罪を赦し、病をも癒されたのです。
第二に、イエス様は彼らの信仰の中に、決して「あきらめない」心をご覧になり喜ばれました。わたしたちも、自分自身の中に「愛がないな」「足りないな」とくじけそうになる時がありますが、決してくじけずに「愛し仕え合う者」とさせていただきましょう。なぜなら、わたしたちは、すでにイエス様の愛を頂いている者だからです。その確信に立ち、わが内におられるイエス様の愛をもって、安心して愛し仕えて参りましょう。
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