義のために生きる

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるため、その打ち傷の故にあなたがたは癒された。Ⅰペテロ2: 24

 第一に、キリストは神が遣わされた救い主です。ここでいう神とは「人が造った神」ではなく「人をお造りになった作者」のことです。この大宇宙を造られ、この自然界を設計され、あなたをも形造られた造り主を、聖書は神と呼んでいます。陶芸家は自分が作った器・作品に自分の名前を入れますね。真心を込めて作ると、作り出した作品に対して愛着が湧くからでしょう。何か特別なものになるわけです。魂を込めて作ったものには、その作者の思いが注入されるのです。同じように、神はあなたという存在を、真心込めて造ってくださいました。ですから、あなたには神の思いが込められているのです。わたしたちの作者は神であり、その神様はわたしたち一人ひとりに真心を込めて愛し、この世に生み出してくださったお方です。

 第二に、人はこの神に対して罪人である、ということです。罪とは、自分の造り主である神から離れて生きることです。 神がたとい居たとしても、自分とは関係がないと考えて生きること、すなわち自分を神として生きることです。むかし、米国で起こった車の窃盗事件が新聞で話題になったことがあります。実はある人が自宅にネズミが出没することで悩まされ、ネズミ退治のために餌として毒入りクラッカーを購入し、助手席においていたそうです。その車が盗まれたのです。すぐに警察に連絡し、必死になって、何も気がづいていない泥棒を捜しました。テレビやラジオを通しても呼びかけたのです。なぜそんなに泥棒に働きかけたのでしょう。泥棒をののしるためではありません。彼を救うためです。聖書を見ると、やたらと罪の話が出てきます。しかし、それは、神が人間を憎んでいるからではありません。救うために呼びかけているのです。神から離れたまま死んでしまうと人は永遠の滅びに至るからです。神はあなたを愛するあまり、罪について触れずにはおれない方なのです。

 第三に、あなたの罪を赦すために、キリストが十字架にかかって死んでくださったことです。キリストはあなたの罪を永久に処分するために、自ら罪を背負い、その罪とともに死んでくださいました。 自発的にあなたを救いたいと願われ、十字架についてくださったのです。十字架刑はローマの極刑でした。両手、両足を釘で打ち抜かれ、十字架につけられ、処刑される者は自らの重みを支えきれなくなると(ちょうど鉄棒にぶらさがったような状態となり、)息が出来なくなりやがて窒息して死んでしまいます。釘で打たれた部分が裂けて、血が流れ、やがて意識が遠のきます。キリストは、なぜそこまでされたのですか。それは、あなたの罪を完全に引き受けられたからです。どうしてですか。キリストが罰を受け、その代わりにあなたが神から赦され救われるためです。悔い改める必要のない聖いお方が、身代わりにわたしの罪を引き受け、罪を赦してくださいました。わたしは何もしなくて良いでしょうか。いいえ、悔い改めるべきです。そして、罪から離れる努力をすべきではないでしょうか。これからの生涯を、神様のために、義のために生きる者でありたいと思います。