信じるに値する、主の救い

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血によるなだめのささげ物として公に示されました。 ローマ3:23-25

 きょうは、ここから三つのポイントでお話し致します。

 第一に、「すべての人は神の前に罪人である」ということです。

ところで、法律というものは、国によって異なります。例えば、交通ルール一つとっても日本では車は左側通行。しかし、米国では右側通行です。日本では自動車運転免許は18才から取得できますが、米国では16歳から取得できる州が多いです。ある国では許されても、別の国では許されないとことがあるんですね。 それと同じように、人の世界では平気で許されることであっても、きよい神の国、神の御前には見過ごしにはされない「罪」というものがあるのです。神の御前におけるもっとも大きな罪とは何でしょう。 聖書の中に「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが第一の戒めです」とあります。最たる戒めは、「いかなるときにも神を第一として生きる」ということです。 ところであなたは、これまでそのようにして来られましたか?もしそうでないなら、あなたは神の最も重要な戒めを破っていることになります。そして、すべての人は、自分の造り主を第一にして生きて来ませんでした。神を無視して生きて来たのです。それで、聖書は「すべての人は罪を犯した」と語るわけです。

 第二に、「神は私たちの罪の償いを、キリストに負わせられた」ということです。それがキリストの十字架ですね。イエス様は裸にされ、鞭打たれ、さんざん辱めを受けて、公衆の面前で釘を両手両足に打ち込まれて十字架の上で死んでくださいました。それは、私たちの罪を私たちに代わって償うための死であったわけです。なぜ、そうだと言い切れるのでしょうか。それは、キリストは死後三日目に復活して、この十字架の死の意味を説明され、立証されたからです。

 第三に、このキリストの十字架と復活による救いを、聖書は「信仰によって受けるべき」=すなわち、「信じるべき」だと宣言しています。漫画家の赤塚不二夫さんが、超売れっ子の時代、担当者が預かった原稿を紛失するという大失態をやらかしたことがありました。担当者は一生懸命探すのですが、とうとう見つけることができず、赤塚さんのもとへ謝りに行ったそうです。すると、赤塚さんは何にも言わずに、書きかけていた別の雑誌の原稿を途中でやめて、もう一度書いてくれたというんですね。そして、その原稿を渡すとき、言ったそうです。「二度目だから、一回目より良く書けたと思うよ。」 ミスについては何も咎めず原稿を渡してくれたそうです。担当者が大の赤塚ファンになったのは言うまでもありません。人は途方もない「親切・優しさ」に触れると、その人を信用できると判断するのです。本物の誠実に触れると、思わず信頼したくなりますね。その信頼が、まさしく、イエス様とわたしとの関係です。

この世界の中で、キリスト以上に、罪人に真実と誠実を尽くされた方はいません。「この方を信ずべきだ」という招きは、まことであり、そのまま信ずるに値する言葉なのです。