何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義と認められるのです。ローマ4:5
ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。
第一に、聖書に「何の働きもない者が」とありますが、人は自分で自分の罪を赦すことができない存在ですね。すなわち、自分を罪から救うために、「何の働きもできない者」だと認めねばなりません。人の罪を赦すことがお出来になる方は、唯一、人をお造りになった創造主のみです。夏になると、海や湖などの水泳場でライフセーバーが活躍します。溺れている人を見つけると、いち早く、救命救助する人たちです。しかし、さすがのライフセーバーも気を付けねばなりません。溺れている人は助けてくれる人に必死にしがみついて来るからです。その「しがみつき方」が激しい場合は、ライフセーバーも苦労します。下手をすれば、どちらも溺れてしまうからです。ですから、ライフセーバーは、溺れている人の背後から接近して、その人をしっかりかかえて安心させ、自分にすべてを任せてくれるよう泳ぐのだそうです。すごいですね。自分で自分を救おうとする内は大変なんですね。必死にもがき、しがみついてくるからです。しかし、自分を助けてくれる者がわかり、その者にすべてを委ねるとき、そこに安心と平安が生まれます。こと永遠の滅びから救われるためには、自分は全く無力であるということを認めなければならないのです。
第二に、不敬虔な者を義と認めてくださる方として、神を認めることです。 「不敬虔な者」とは、神をも恐れぬ傲慢な者、罪人のことです。 欠点だらけなのに威張り、神に生かされているのに自分の力で生きているように錯覚し、迷惑をかけていてもそれに気付かず、のうのうと生きているのが罪人ですね。あなたはこんな人を愛することは出来ますか。ところが、神はそんな自己中心の人間を、義と認め、正しいと認めると言うのです。罪人を罪と認定しない裁判官はダメ裁判官ではありませんか。しかし、神は罪人を義と認めても不正にならない方法を取られました。それがイエス・キリストによる身代わりの死と三日目の復活なのです。神は人が自分でできなくなった事を代わりにしてくださいました。すなわち、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりに十字架について死んでくださり、あなたの罪を永久かつ完全に処分してくださったのです。
第三に、聖書には「その信仰が義と認められる」とありますが、どのような信仰が神に義と認められるのでしょうか。それは、あなたの罪のために、イエス・キリストが十字架で身代わりに処罰され死んでくださり、よみがえって下さったことを信じる信仰です。すなわち、キリストが復活して、あなたの罪や咎の一切をすでに処分して下さったことを証明されたことを信じる信仰です。どうでしょうか。あなたの信仰はそのような信仰になっているでしょうか。ちょっとした出来事で、足元がぐらぐらする信仰ではありませんか。あなたの罪の身代わりに十字架で死なれ復活されたキリストは、あなたがそれを信じるとき、決して揺るがぬ信仰の土台となるのです。どうぞ、あなたもイエス・キリストを信じて義と認められる道を選び取ってください。
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