安息日を覚えて

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。出エジ20: 8,9

 神は、聖書の中で「休む」ことについてどのように語っているでしょうか。出エジプト記20章「十戒」部分で、神はこう語っています「6日間働いたら、7日目は休みなさい。」 なぜならば、神が6日間で天地万物を創造し、その造られたものをすべて満足され、7日目をわざわざ用意されて、その日はすべての働きを止めて休んだ、その神の業を覚えて、あなたがたも休みなさい、と言われたからです。6日間ずっと働いてきた奴隷や家畜たちも、神はこの日には休めるようにしてくださったというわけです。また、申命記でも「安息日」について触れていますが、申命記5章では、安息日に休む理由として、天地創造には触れておらず、神がエジプトで民をその奴隷から解放して救ってくれたことを思い出して、安息日を「休む」ように言われています。安息日は、自分がしていること(仕事)を「中止する」ことなのです。自分の仕事とは、人のわざのことです。6日間続く人のわざを中止し、7日目には「神のわざを見上げる」ということです。神が私たちに与えてくださった天地創造の完全なわざ、そして、御子キリストが十字架で私たちの身代わりに死んでくださり、私たちを罪の奴隷から完全に解放し赦してくださった「神のわざ」を覚えて、思い起こしなさいということなのです。 人のわざは、それがどんなに人の助けになる「わざ」であっても、神はその仕事を7日目には中止して「休みなさい」と言われます。なぜならば、人のわざは、それがどんなに善いわざであっても、いつの間にか「ひとりよがり」の思いになってしまうことがあるからだと思います。自分は絶対に正しいことをしている、善いことをしていると、「おごり高ぶる」ことが多い私たちではないでしょうか。そのことを覚えるためにも、自分がしていること(仕事)を一旦中止して、「神のわざ」を思い起こすことは大切なことなんですね。

 私たちは、安息日に、自分のことを中止して、主を見上げているでしょうか。私たちが安息日に礼拝するために教会に来たとしても、主の御わざを心から感謝して礼拝しなければ意味がありません。また、主日礼拝に来られない人のことをあれこれと言わないことです。彼らは礼拝に来られないけれども、置かれた所で主を拝しているかも知れません。わたしたちに必要なのは心からの礼拝です。イエス様も仰いました。「安息日のために人があるのではありません。人のために安息日があるのです。」すなわち、安息日は、人を縛るためにあるのではありません。人を日々の労働から解放して、主を見上げるためにあるからです。

 日本においても、今後、「休み」が増えるのであれば、わたしたちは、しばし立ち止まり、静まりをもって、人のわざを中止し、良くしてくださった「神のわざ」をさらに思い起こす時を持ちたいと思います。そして、人を教会に導き、主の救いをさらに宣べ伝える者になりたいと思います。