怒られたイエス様

また、(イエスは)鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」ヨハネ2:16

 きょうの箇所を通して、皆さんはイエス様が「怒られる方である」ことが分かります。しかし、イエス様の「怒り」は私たちの「怒り」とは違います。私たちが怒るとき、陥りやすい過ちは何でしょうか。おそらく、感情的になり、口から汚い言葉が飛び出してくることが多いのではないでしょうか。カッとして、頭に血がのぼり、後先考えずに怒りを言葉に変えるのではありませんか。私たちの怒りは常に「罪」を犯す危険があります。なぜなら、私たちが怒って発する言葉によって、傷つく者が出てくるからです。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」と、ヤコブ1:20にある通りですね。

 しかし、イエス様の「怒り」は罪を犯すことがないのです。なぜなら、神であるイエス様には「罪」がないからです。神殿の庭において主がが暴れておられる様子は、一見感情的のように見えますが、そうではありません。なぜなら、イエス様が怒る目的は(わたしたちのそれとは)違うからです。なにか理不尽な出来事を前にすると、私たちは腹が立ち、頭にきて、我慢できずに力任せに、感情的に「怒る」のですが、イエス様は同じ理不尽さを怒る場合にも、必ず「神の愛」がその動機になっているのです。すなわち、理不尽さを引き起こしている相手に対し、イエス様は、常に愛を持って、「悔い改めて立ち直る」ことを願って「怒る」のです。イエス様は、神殿で「いけにえ」にする動物を売っている人々に対し、彼らの不信仰を嘆きながらも、ただ感情に任せて「怒った」のではありません。彼らを心から憐れみ、彼らが悔い改めて、神に立ち返るために「怒った」わけです。しかし、彼らは悔い改めができなかったのです。イエス様は悔い改めない人々に仰いました。 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 この神殿は、ヘロデが46年の月日を費やして、エズラが建てた神殿の修復をしたものでした。それを、三日で建て直すのか、とユダヤ人たちはイエス様を馬鹿にしたわけです。しかし、イエス様が仰った「神殿」とは、ご自身の「からだ」のことでした。イエス様が十字架で死んで三日目に復活することを、「三日で建てる」と仰ったわけです。 弟子たちは、イエス様が十字架で死なれて復活されたとき、このときのみ言葉を思い出しました。

 聖書によれば、クリスチャンの内に聖霊様が住まわれ、クリスチャンのひとり一人を愛し、私たちのからだを「神殿」としてくださるのです。そして、神殿である「あなた」や「わたし」のからだをも清めて下さるのです。時に、イエス様は試練を与えられます。その試練によって、私たちは自らの罪深さに気付かされ、内側に悔い改めが起こり、私たちは聖化を経験します。これは聖霊様の働きですね。イエス様が愛をもって神殿たる私たちの内の「不必要なもの」をなぎ倒し、追い出して下さるのです。わたしたちも「宮きよめ」して下さるイエス様にお委ねして、常に主に信頼して立ち直ることができる者にさせて頂きましょう。