ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。マタイ19:30
きょうは、先週に続いて、「天国に入るのに、ふさわしい者」についてお話ししたいと思います。
「金持ちの青年」がイエス様のところに質問をしに来ました。それは、「どんな良いことをしたら永遠のいのちを得ることができるのでしょうか」という質問でした。みなさんもご存じの通り、永遠のいのちを得るためには=すなわち、天国に入るには、イエス様を救い主として信じることだけなんですね。イエス様は青年に、「良い方」「正しい方」はひとりだけです、と仰いましたが、その通りです。人はどんなに良いことや正しいことをしても、正しくて罪が全くない存在にはなれません。正しい方=罪がない方は神様だけなのです。「(あくまでも)良いことをして救われると思うのなら、聖書の戒めを守りなさい」と、イエス様が伝えると、青年は「そのようなことはみな、守っています」と自信満々に答えるわけです。しかし、イエス様から「もし、あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われると、青年は悲しげにイエス様のもとを去っていきました。
この青年は、なぜイエス様のもとを去って行ったのでしょうか?財産を簡単に手放すことができなかったからです。なぜなら「お金」「財産」が、この青年にとっての「偶像」になっていたからです。「偶像」とは、その人の中にあって、神のような存在であり、また神様よりも上に置いてしまっているものなのです。この金持ちの青年は決して他人事ではありません。あなたには「偶像」はないでしょうか?27節には、ペテロがイエス様に「わたしたちは何もかも捨てて、あたなに従って参りました」と答える場面があります。しかし、イエス様には分かっていました。弟子たちには捨てられないものがありました。それはプライドであり、名誉欲だったのです。弟子たちは、この後イエス様が「ぶどう園」のたとえ話をされた後でも、「だれが一番偉いか」について言い争いをするからです。それがあるゆえに、人は信仰がなかなか成長しないのです。なぜならば、イエス様を信じていても、イエス様以外のものを第一に優先してしまうからです。
「何もかも捨てて主に従う」とはどういうことでしょうか。それは、すべてのものに優って、神様が一番であり、イエス様の救いがすべてに優る信仰ではないでしょうか。わたしたちが判断に迷う時、イエス様が常に「規準」になればよいのです。そして、イエス様が私たちに最も願われていることは、神の御前に自分のプライドや傲慢を捨て、謙虚に低姿勢で生きることなのです。イエス様を信じる私たちの低姿勢と謙虚な生き方こそ、「あとの者がさきになる」生き方であり、天国に入るのに相応しい姿なのです。
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