するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」 ルカ10:37
新型コロナの影響で多くの学校が一斉休校となり、そのあおりによって様々なところで混乱が生じました。そんな中で「心温まる」ニュースもありました。ある給食業者が大量に余って廃棄処分を検討していた「牛乳」を、豊橋市役所の職員が有志で購入しているというニュースです。市の職員が有志で消費できる量は「知れている」かも知れませんが、困っている人に「手を差しのべた」温かいニュースにホッとします。
イエス様が話された「たとえ話」の中にも、「困った人に手を差し伸べる」という、これと似たようなお話があります。イエス様はこの話の中で「隣人愛」について、私たちに深く考えさせてくださっているように思います。「隣人愛」の「隣人」というと、いったい誰のことを指すのかなあと、わたしたちはつい考えてしまいます。自分のごく身近にいる人、、、、たとえば 家族や親戚、友人、知人とか、あるいは、自分の身近にいる人で何かに困っている人のことを考えます。戦前のお話ですが、現在の聖隷病院を創設した長谷川保氏と奥様は、当時、「死の病」と言われた「肺結核患者」を三方原診療所にかくまい、その医療に当たりました。まわりの人々はみな白い目で見ました。そして、誰も手を差し伸べなかったのです。なぜならば、肺結核は人にうつる病で、当時は特効薬がなかった時代ですから、人々は誰もがその病気を恐れました。しかし、長谷川さんたちは信仰に立って病の人に手を差し伸べていきました。放っておけなかったんですね。イエス様だったら同じようにされると彼らは信じたからです。彼らの愛の医療活動は天皇陛下の耳にも届いて彼らに金一封が届き、それがきっかけとなって、長谷川さんたちの医療活動が地域に受け入れられていったと聞いています。長谷川さんたちにとっての隣人とは、死の病として世間から見放された人たちだったんです。長谷川さんたちは、信仰を持って、彼らに寄り添い、彼らの「隣人」になりました。病の人たちが長谷川さんたちのそばにいたというのではありません、長谷川さんたちが(自ら)彼らの隣人になったのです。さあ、イエス様が言われる「隣人」とは、あなたや私にとって、どういう存在なのでしょうか。
ある律法の専門家に対し、イエス様は「隣人」について教えるために「よきサマリヤ人」のたとえを話されました。その話の中では、大けがを負った人を助けたのはサマリヤ人でした。イエス様の当時、ユダヤ人はサマリヤ人とは仲が悪く交わろうとはしませんでした。ですから、ユダヤ人である律法の専門家の彼にとって、サマリヤ人は決して「隣人」とは考えなかったんですね。しかし、イエス様から「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と尋ねられたとき、彼は「その人にあわれみをかけてやった人です。」と認めざるを得ませんでした。すなわち、隣人とは初めから自分で決めてかかるものではなく、いかに、自分自身が「相手の隣人になれるか」なんですね。わたしたちクリスチャンも、日常の中で、自分が「相手の隣人になれる」ようにさせていただきたいと思います。
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