そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。ルカ17: 15,16
イエス様は、エルサルムに向かう途中、ガリラヤとサマリヤの間にある村を通られました。その村には重い病(ツァラアト)に冒された人々がいました。しかし、イエス様はあえてその村に立ち寄られたようです。なぜなら、イエス様は救いを求める人のところに行かれる方だからです。
ツァラアトは伝染病だったので、病に冒された人たちはもと居た場所から隔離されていたわけです。そして、他人に病を移さないように離れて立ち、他人が近づけば、「わたしは汚れた者です」と叫ばなければなりませんでした。ちょうど、今、感染が世界的な問題になっている新型コロナという病と似たところがあります。でも勘違いをしてはいけないのは、2000年前イエス様が地上におられた時には、人が病気になるのは、その人が罪を犯して、神の前に「汚れている」と信じられていたからです。
イエス様がその村に立ち寄られたとき、10人のツァラアトの人々がイエス様に助けを求めて遠くから叫んだのです。 この人たちはイエス様が神の子と呼ばれるキリスト(救世主)であると信じ、藁(わら)をもつかむ思いで声を上げたのです。イエス様は彼らが「良くなりたい」と願っているのを知り、彼らに応えられました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」 彼らは信じて祭司のところへと出かけます。すると、道すがら、彼らは癒されたのです。サマリヤ人は自分が癒されたことを躍り上がって喜びました。そして、彼は再びイエス様のところに戻って来ました。なぜですか? それは、彼は病に冒された自分の身体の中に、イエス様の神の力が働かれたことが分かったからです。しかし、どうでしょう。残り9人のユダヤ人たちは戻って来ませんでした。彼らは、自分が癒されたことの中に、イエス様の力を見なかったからです。9人がすべてユダヤ人だったことは偶然ではありません。ユダヤ人の中には、イエス様を素直に受け入れない者が大勢いたからです。
サマリヤ人は癒された身体をイエス様に見せにきました。癒されたことを感謝するためでしたが、しかし、彼が主のところに戻ってきたのは、イエス様をキリストとして、また、祭司として認めたからです。祭司は、罪が癒されたことを宣言し、神に犠牲を捧げるのが仕事でした。そして、イエス様も神の前に私たち罪人の「罪が赦された」ことを宣言してくださったお方ですね。イエス様はエルサルムへの旅の終わりに、なんと十字架で自らを犠牲にして、私たち一人ひとりの罪を滅ぼされたのです。
戻って来たサマリヤ人は、イエス様の前にひれ伏し感謝を捧げました。これは彼の礼拝です。私たちクリスチャンも癒されたものです。すなわち、私たちは主を信じて罪を赦された者です。サマリヤ人は病を癒されました。同時に罪の汚れがなくなったことを主が宣言しました。私たちの罪もイエス様が滅ぼして下さったことを主はご自身の復活を持って宣言されたのです。あなたは、サマリヤ人がしたように感謝の礼拝を捧げる者でしょうか。
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