そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」Ⅱ列王記6:17
今日はこの箇所を通して「霊の目が開く」とは、どういうことなのかを見ていきたいと思います。霊の目が開かれることは大切です。なぜなら、霊の目が開かれなければ、私たちはいつも目に見える世界だけで判断し、行動していくことになるからです。私たちクリスチャンは、目に見えないけれども確かに「神のご支配」が働かれていることを霊の目で見て、それを信じることが出来なければ、神様のことが何もわからないものなのです。霊の目が開かれて初めて、私たちは神が共におられることが分かり、神の愛が分かるものなのです。
アラムとイスラエルはたびたび戦争を繰り返しましたが、なぜかアラムがいつも負けてしまうのです。なぜなら、預言者エリシャがアラムの戦略を見抜き、イスラエルの戦いを有利にしたからです。アラムの王は、身内にスパイがいて、自分たちの軍事機密を漏らしているのだと疑いました。しかし、家来の報告で、イスラエルには神の霊で戦略を見抜く「預言者」がいることが分かりました。そこで、王は預言者エリシャを捕らえるために、夜、大軍をドタンの町に移して包囲しました。夜が明けると、エリヤの召使が町を囲むアラムの大軍を見て大変動揺するわけです。しかし、エリシャは落ち着いて、しもべに「恐れることはない」と諭します。なぜでしょうか。それは、エリシャが目に見える現実ではなく、目に見えない「神の支配」を確信していたからです。エリシャはしもべに対し、「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」「どうぞ、彼らの(霊の)目を開いて、(神の御力とご支配が)見えるようにしてください。」と祈りました。霊の目が開かれるならば、私たちもまた、私たちを守られる神の軍勢を見ることになるわけです。
何をするにも、何が起ころうとも、そこに神がおられ、すべてが神のご支配の中で事がなされる。私が教会に、そして神のもとに導かれたのは偶然ではない、その背後で神が導いておられたのだと、私たちは堅く信じるわけです。その信仰の確信の原点は、イエス様が私の(罪の)ために十字架で身代わりに死んでくださった。それゆえ、私は罪の一切が神の前に赦され、イエス様を通して神に繋がっていると受け取った霊的な体験なのです。私たちはその霊的な体験、イエス様が私たちのために死なれたという、その霊的な体験によって「目が開かれる」と思うんですね。
そのようにして、今世界で起こっている「新型コロナ」の猛威をも、皆さんは霊の目で見ることが出来るでしょうか。そこには、神のご支配が働いています。神様は私たち一人ひとりをこよなく愛し、この世に誕生させてくださいました。そして、更に主イエス様を信じて霊的に新しくさせ、再び神のもとに取り戻したいと願われているお方です。ですから、このような中で、神様は何をされようとしているのか。神の御力と支配に期待をして見ていきたいと思うのです。
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