あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。ルカ15:7
「主を、おのれの喜びとせよ。」 これは、私が入信した時の「みことば」です。「神様の喜びを、自分の喜びとして生きたい。」 そのような思いで頂いた「お言葉」です。「神様の喜び」とは何でしょうか。それは、失われた者が神のもとに立ち返ることです。
ルカ15章には「失われたもの」を捜し出す神の姿と、失われた者を見つけ出したときの「神の喜び」が、「3つのたとえ話」で記されています。 取税人や罪人たちがイエス様の話を聞こうと集まってきました。イエス様は一緒に食事をとりました。そこへ、律法学者ヤパリサイ人がやってきて「つぶやき」ました。 「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」律法学者たちも、実はイエス様の話を聞きに来たと思うのですが、イエス様が取税人たちと食事をしている様子を見て、つまづきました。なぜなら、律法学者たちは罪人と呼ばれる取税人たちとは決して一緒に食事をとることがありませんでした。彼らは汚れた者と食事をとろうとはしなかったのです。イエス様は、そんな律法学者、たちを憐れみました。「なぜ、わたしの話を聞いて、神に立ち返ろうとする人たちのことを、あなたがたは喜ばないのか」 そして、「いなくなった一匹の羊」の話をするわけです。
旧約聖書には、羊飼いと羊の話があります。イエス様は、ユダヤ人ならば誰もがピンとくる話題で話したわけです。羊を百匹持っている人(羊飼い)とは、神様(イエス様)のことです。そして、いなくなった羊とは、取税人たちのことです。羊飼いは、一匹の羊がいなくなったことに気づくと、残りの99匹を野原に残してでも捜しに行かないでしょうか、と言われました。「羊」という動物は聖書では「人間」に例えられています。羊は、自分の目の前しか見ない性質があって、迷子になりやすい弱い「生き物」です。臆病で、まわりの羊たちの動きに合わせて動く性質があります。しかし、一見おとなしそうで臆病な反面、強情でわがままな面があるそうで、まさしく、わたしたち人間と似ていると思います。イエス様は、羊飼いのもとから離れて「いなくなった羊」のことを、「罪人」として例えています。そして、そんな「いなくなった羊」を憐れみ、心配し、99匹の残りの羊を野原に残してでも「捜しに出掛ける」羊飼い=神様は、「愛にあふれるお方」ですね。
わたしたちクリスチャンひとり一人をも、神様イエス様は顧みて下さり、「わたし」や「あなた」が救われるために名前を呼んで捜し、見つけ出してくださいました。先に挙げた「みことば」=「主をおのれの喜びとせよ」 神さまに「背き」、神様から「離れていた」わたしをも愛し、見つけ出してくれた「神様の愛」に気づいたとき、私は、罪人を捜し出し、神のもとに立ち返らせることが「神様の喜び」であることがわかり、イエス様を救い主として信じました。そして、そのような「神の喜びの中に生きたい」と思いました。「あなた」や「わたし」が救われることが神の喜びであり、また、私たち教会の喜びでもあるのです。
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