新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。ルカ5:38
イエス様が仰っている「古い皮袋」とは何でしょうか。それは、ユダヤ人、なかでも、パリサイ人たちが重んじた律法、宗教的道徳的な行い(善行、奉仕)、断食、割礼といった、目に見える表面的な「しるし」のことです。 しかし、人は律法を守ることによって、割礼を受けることによって救われるのではありません。人は、ただ主の前に罪を悔い改めて主に立ち帰ること、すなわち、信仰によって救われることを、この譬えの中でイエス様は仰っているわけです。
取税人レビ(マタイ)が、何もかも捨ててイエス様に従った、と短く記されています。レビはイエス様に声をかけられ、これまでの罪ある生き方を認め、悔い改めて、主について行きました。イエス様によって罪赦されたレビが、感謝と喜びをもって、食事にイエス様と弟子の一行、そして、罪人たちを招きました。そこに、ユダヤ人、パリサイ人が来て、イエス様が罪人たちと飲み食いしているところを咎めて言ったわけです。パリサイ人たちは、断食を重んじたことがわかります。断食も神の前に正しい者が行う「模範」のようなものだったことがわかります。割礼もそうですし、律法を守り行う者が神の前に「正しい者」であり、神によって「救われている」しるしと考えていたわけです。しかし、イエス様は仰いました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
わたしたちが今病気だとします。しかし、わたしたちは自分が病気(かも知れない)と思わなければ、決して病院には行きませんね。治療ができず、放っておけば病は悪化するでしょう。同様に、わたしたちが神の前に自らを「正しい」「大丈夫だ」と言い張っている内は、決して「神に救われる」ことはありません。自分の病を認めない病人と一緒です。自分の病を認めない者は、決して治療を受けないからです。わたしたちは、イエス様に出会う前は、神様を認めず、自分自身を中心に置いて、神のように振舞って生きてきました。しかし、この生き方を悔い改めて、「これからはイエス様を信じて、神に従って生きて参ります」と、レビのようにすれば良いのです。
わたしたちの救いを阻む「最大の難関」は、「自分は正しい」「間違っていない」と言い張る「心」です。ここを乗り越えさせて頂くことによって、わたしたちは主を信じ受け入れる者となるのです。十字架にの上で「わたし」の罪の身代わりに、「わたし」の罪を永久に消し去ってくださるために、主イエス様が死んでくださり、黄泉にまで下ってくださいました。この事実を、「ありがとうございます」と、ただ受け取るだけなのです。 神の前に「自分は決して間違っていない」「自分は正しい」といつまでも言い張る「頑なな心」、、、、これが「古い皮袋」なのです。大切なことは、神の前に、これまでの神抜きの生き方が間違っていました、と言える「柔らかい心」なのです。 イエス様が仰った「新しい皮袋」とは、福音を受け入れる「柔軟な心」なのです。神の前に、自らの汚れを認め、身を低くし、キリストの清さを求め、いただいて生きる。クリスチャンになっても、そのような歩みをさせて頂きたいと思います。
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