豊かな実を結ぶには

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。ヨハネ15: 5

 きょうは、主が十字架につかれる前日に、弟子たちに話された「ぶどうの木」のお話についてご紹介しましょう。お話の中で、農夫に例えられているのは「父なる神」です。神は、実を結ばなかった「偽りのぶどうの木」である「イスラエルの民」をなおも憐れみ、イスラエルの民に代わって、「まことのぶどうの木」である主を与えて下さり、弟子たちを枝として豊かな実を結ばせ、神の栄光を示そうとされました。  さて、キリストを信じる弟子にとって、また、現在のわたしたちクリスチャンにとって、「豊かに実を結ぶ」とは一体どういうことでしょうか。ガラテヤ6章には「御霊の実」について語られていますが、まさしく、御霊の実こそ、主を信じる者がいただける祝福の実のことなのです。主が結ばせてくださる実とは、第一に、主にある愛、喜び、平安に満たされることです。そして、第二に、私たちを通して、私たちの隣人もキリストの喜びに満たされることです。そして、第三に、私たちが主を信じて喜びと平安に満たされることにより、神に栄光が帰されることです。  では、「多くの実を結ぶ」ためには、どうしたら良いのでしょうか。 

 第一は、父なる神が、「刈り込み」をなさることによって「豊かな実を結び」ます。農夫は、「ぶどうの木」に「多くの実を結ばせる」方法を良く知っていますね。より多く実を結べるように「刈りこみ」をします。「刈りこみ」とは、以前、お話したことがある「切り戻し」のことです。ここで、「刈り込み」をするという言葉と、3節の「きよい」という言葉は語源が同じ言葉だそうです。すなわち、私たちが「豊かな実を結ぶ」ために、神が「刈りこみ」をし、私たちを「きよめ」て下さるのです。私たちがよく口にする「きよめ」とは、神から「刈りこみ」を受けることなんですね。神さま、イエス様から「み言葉」を通して、自分自身の「傲慢さ」を示され、打ち砕かれ、主によって丁寧に「取り除いて」いただいて、「豊かな実を結ばせて」頂けるのです。第二は、「まことのぶどうの木」である「主にとどまる」ことです。主に「とどまる」とは、枝が幹に繋がり、豊かな実を結ぶように、「まことのぶどうの木」である「イエス様」をいつも見上げて、主と(霊的な)交わりをもつことです。霊的な交わりを持つとは、常に、イエス様による救いを喜びとすることが第一ですね。そして、先ほど触れました通り、主から頂いたみ言葉によって自らの傲慢さが示され、砕かれ、取り除いて頂き続けることが大切ですね。これが、主に「留まり続ける」ことなんだと思います。そのことによって、私たちは神の栄光を現わし、主にある「愛」と「喜び」と「平安」な歩みをし、隣人を愛していく「豊かな実を結ぶ」者とさせて頂けるのです。  

 私たちは罪に対し自らの中には解決がないことを、また、自分の力では豊かな実を結ぶことができないことを認め、「まことのぶどうの木」である主を信じて豊かな実を結ばせていただきましょう。