無用な心配

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイ6:33,34

 イエス様が仰った「心配」とは、「心配して当たり前のこと」を指しているのではありません。例えば、一週間先に大事なテストがあるならば勉強をするのは当然ですね。そのために心配して準備するのは当たり前のことです。しかし、聖書でイエス様が語る「無用な心配」とは、心が心配で一杯になり、何も手が付けられなくなる程の心配を指しています。イエス様は、このような心配はいらないと言われるのです。では一体どうすれば、このような心配から解放されるのでしょうか。 

 まず 第一に、「神の国とその義をまず 第一に求める」ことです。神の国というのは「神さまによる支配」のことを指します。そして、神の義というのは「神による恩恵」のことなんですね。「この広大な宇宙をも支配される神の力と、私たち小さな人間の、どんな愚かな者にも、惜しみなく注がれる神さまの恵みを救い主イエス・キリストこそ持っておられる」ということなのです。すなわち、キリストは神の力でこの世界をコントロールできる方であり、また、いかなる罪人をも救うことが出来る方なのです。このお方が、このわたしの(罪の)ために命を投げ出して十字架で死んでくださったことを信じることなのです。なぜなら、多くの心配は、神から離れ、神という絶対的に信頼できる方を見失った結果「生じるもの」であるからです。

  第二に、この神さまに「思い煩いを何もかも」委ねることです。人は弱いもので、人生において失敗を繰り返すものです。しかし、思い出してください。5つのパンと二匹の魚の奇跡ののち、イエス様は弟子たちの信仰の成長のために、湖上を歩かれ弟子たちに会いに行かれました。そして、イエス様のように波の上を歩こうとしたペテロが、恐ろしさから波風に目がとまった瞬間水の中に沈みかけましたが、イエス様がペテロの腕をつかんで引き上げてくださいました。神に何もかも委ねるというのは、まさにこういうことではないでしょうか。イエス様は欠けだらけの、心配だらけの、弱くて小さな「わたし」でも、イエス様を救い主として信じるとき、イエス様はわたしやあなたの腕をしっかりつかんで決して離さないお方です。 

 第三に、「労苦はその日その日に十分ある」という秘訣です。ここでいう労苦というのは、今の自分に出来ることを指しています。私たちは、心のエネルギーを無駄に遣うことが多くあります。例えば、過去への後悔とか将来への不安・心配ですね。これに心を遣っていると一日中何も出来なくなってしまいます。しかし、人生は出来ないことを悔やむことではありません。出来ることに集中するためにあるのです。「以前出来たことが(何らかの理由で)出来なくなってしまったことを悔やむ必要はない。むしろ、まだ出来ることが必ず残されていることに目を向けることが大切なのだ」と、イエス様は仰いるのです。なぜなら、キリストは「労苦はその日その日に十分ある」と仰っておられるからです。この出来ることに集中して取り組んでいくことが「無用な心配」から開放されていく秘訣なのです。