生きることはキリスト

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。ピリピ1:21

きょうは、21節前半の「私にとっては、生きることはキリスト」を見てみましょう。もともとのギリシャ語原文では「私にとっては」が強調されています。「他の人はどうか知らないが、しかし、私にとっては生きることはキリストなのだ」と言うわけです。どうでしょうか。私たちもこのように宣言できるでしょうか。

しかし、このような宣言は普通の人には恐ろしいものですね。なぜならば、この御言葉は前提として、私という自分自身を十字架につけて葬り去ることを求めているからです。私たちは自分がかわいいです。自分を生かしたいです。自分の望み、したいことに関心があります。大切なのは「私」であり、生きることとは私自身ではないでしょうか。たった一度の人生だから、すべては私のためでなければならない。結局、「人生とは自分のためである」と言っているに過ぎないのではないでしょうか。私たちは、実は、「生きることはキリスト」というよりも、「生きることはクリスチャン人生」の段階にとどまっているのかも知れません。

 しかし、きょうの御言葉「生きることはキリスト」とは、クリスチャンとして一生を送りなさいということを言いたいのではないと思うのです。実は、私たちクリスチャンとしての「生きる姿勢」のことを問うているように思います。 ある人が初代教会の弟子たちについて次のように述べました。「彼らはキリストを記憶しながら出て行ったのではなく、キリストを実現しながら出かけて行ったのだ」。すごい表現だなと思います。それは20節をヒントにすると、「キリストのすばらしさが現されるために生きていく」ということでしょう。私たちはキリストがガリラヤでご自身を現していた時のように亜麻布を着る必要はありませんし、いつもサンダルを履く必要はありません。靴を履いていればよいのです。いつも徒歩で移動でずとも、電車や車を利用していいわけです。日本人であることをやめなくてもよいわけです。ただ私たちは、キリストの品性に倣って、キリストの教えに生き、キリストの福音を宣べ伝え、神の目的に生き、キリストのすばらしさが現されることを願いたいと思います。 イエス様は、私たちを罪と永遠の滅びから救うために、十字架につき、いのちを惜しみなく差し出してくださったお方です。まことの神、救い主です。このお方を知ったからには、自分のために生きるのは、もう過去の人生だけで十分ではないでしょうか。これからはキリストのための人生を送りたいと思わないでしょうか。私たちは常に、「生きることはキリスト」=「キリストのすばらしさが現されること」を目指して、自分自身の生活を見直していこうじゃありませんか。イエス様を心の真ん中にお迎えし、自分の夢、時間、行動、金銭の使い方、人間関係、こうしたことすべてを吟味していきましょう。 いつも順風とはいかないかも知れません。家庭や職場が牢獄に感じられることがあるかも知れませんが、でも、私たちはどこにあっても何があってもパウロのように、キリストの御名があがめられることを願って歩んでいこうではありませんか。「彼らはキリストを記憶しながら出て行ったのではなく、キリストを実現しながら進んだ」という初代教会の聖徒の姿に倣ってまいりましょう。