しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(中略)だから、聞き方に注意しなさい。ルカ8: 15,18a
きょうは、イエス様が話された「種まきのたとえ」をご紹介しましょう。主がたとえ話を語り終えられたのち、弟子たちが、このたとえ話の意味を教えてほしいと願い出ると、イエス様は弟子たちに丁寧に教えてくださいました。蒔かれる種とは「神の言葉」です。そして蒔く人は(おそらく)イエス様です。種が落ちた地とは、それぞれ「人の心」を表しています。
耕されていない道端に落ちた種が鳥に食べられてしまうように、神の言葉を受け入れる準備の無い人(心が頑なな人)に語られた神の言葉はサタンに奪われやすいのです。その人は悔い改めが出来ないで素直に神の言葉を受け入れないからです。
岩の上、すなわち、耕されていない石だらけの土の上に落ちるとは、神の言葉をきちんと受け止めないで、ちょっと聞いただけで感動し、軽い気持ちで神の言葉を受け入れる人です。根が十分に伸びずにすぐに枯れてしまうように、ちょっとしたことで動揺し、つまずき、神の言葉(約束)から目が離れてしまいます。 茨が生えるところに落ちた種はどうなるでしょう。茨とは人間の「欲望」のことです。せっかく神の言葉が芽を出して信仰的に霊的に成長しようとしているのに、欲望という茨に覆われると成長できません。
しかし、良い地(畑)、すなわち、イエス様によってよく耕され、石が取り除かれ、雑草(茨)が抜かれた畑に蒔かれた種は、芽を出して大きく成長し、豊かな実を結びます。良く耕された畑とは神の言葉を聞いて、しっかりと受けとめる人であり、蒔かれた種、すなわち神の言葉はその人の中で大きく成長し、豊かな信仰者になって行きます。
さて、皆さんはこのたとえ話をどのように受け取られたでしょうか。主はあなたに「心を柔軟にして主が語る福音を受け取り、成長して、多くの実を結ぶ、そのような人になるように」と仰っているように聞きましたか。しかし、よく読んでみると、イエス様は聞いている者たちに、「心に良い畑を持つ人になりなさい」、とは仰いませんでした。良い地に蒔かれた種は豊かな実を結ぶことになるとだけ仰ったのです。なぜでしょうか。それは、私たちは、良い畑のように神の言葉を受け入れる人になりたいと思っていても、なかなかそのような人になれないという悩みを持っているからです。私たちは、どちらかと言えば、道端のような、石ころだらけで、欲望という茨が覆う心の持ち主ではないでしょうか。良い畑のような心の持ち主にならなければ、神の言葉は届かない、成長しない、実を結ばないということであれば、私たちに救いの希望はないのではないでしょうか。
いいえ。そうではありませんね。そのように心頑なな私たちが、ときに神様から必要な「刈り込み」を受け、主に立ち返ることによって、主が頑なな心を柔らかく耕して下さり、豊かな実を結ぶ良い畑にして下さるからです。「種まきのたとえ」における農夫であるイエス様に、いつも「耕して」いただきながら、神の言葉に聴き耳を立て、素直な心で受け入れ、ときに忍耐することができる「良い地」=心の準備をしていたいと思います。
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